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レビューを書いて文章力をあげたいという甘い考えの産物です。

女性労働と企業社会

女性労働と企業社会 (岩波新書)

女性労働と企業社会 (岩波新書)

熊沢氏は「被差別者の自由」という言葉をキーワードにしている。
差別をされるのであれば、本来持つべき義務から自由になってもいいはずだ!ということ(なんだろうと私は理解した)。
たとえば、非正規の社員は、正社員が持つ「責任」などから一定程度自由である、というように。
雇用者が給料や昇進で差別をするという態度をとるのであれば、労働者がそれに相応する対応をしてもいいじゃないか!ということで、私もそれには同感である。
しかし、近年は、そういった「非差別者の自由」が奪われつつある、という。
非正規として働かせられながらも、会社の基幹的な仕事を任され、正社員のように働くことを強制される。
これだけであれば、特に性別の違いは関係がないように思われる。
ただ、非正規として働く女性の割合の高さや、正社員であっても、多くの女性が実際は「会社内の家事」とも言えるような雑用的仕事に追われている現実を見ると、労働者の非正規化によって女性がより多くの影響を受けている、と考えるのは自然な流れだろう。

この本を読んでいて改めて思ったのであるが、アファーマティヴ・アクションや、女性が継続して労働し続けられるような後押し(育児休暇など)は確かに重要だろうが、それは本当に根本的な「女性の労働」の解決になるのだろうか。
例えば、「女性が一般事務をやり続けなくてはいけないのはおかしい!」と訴えて、マーケティングなどの男性メインの仕事につくことで、一定の人々はより自己実現ができるような職業につくことは出来るだろう。しかし、それでは「一般事務」は誰がやるのか。「アルバイトさんにやらせればいい」とか「もっと安い労働者にやらせればいい」と考えるのであれば、「一般事務は重要な仕事ではない」という意識の改革はなされないのであって、ただ単に差別を先送りし、他の差別基準を作るだけである。(そして、これが今実際になされている非正規社員の問題と非常に深く関係があると感じている)
これは、家庭についても全く同じことが言える。
最近は兼業主婦を持ち上げる傾向が強く、「家庭に閉じこもるなんて最悪!」とか、「私だって働きたい!」と言う事がなにかトレンドあるような風潮さえある。
もちろん、女性だから家庭で働くべきだ、という慣習・価値観はもはや時代遅れであることは間違いない。しかし、だからといって主婦が働くことを奨励するだけでは、「家事」という家庭の仕事そのものの価値は低く見られたままである。
本書にも書いてある事だが、一般事務にしろ家事にしろ、ルーティンワークであることには違いないがだからといってそれが「価値の低い仕事」ということにはならない。
もし会社から一般事務という仕事をする人がいなくなったらどうなるか。
もし家庭で家事をする人がいなくなったらどうなるか。
会社ではなにもできなくなるだろうし、家庭生活も崩壊してしまう。
会社の、また家庭の「縁の下の力持ち」であるのが一般事務であり主婦(主夫)なのだ。
だからこそ、こういった仕事がどんなに価値あるものなのか、どんなに重要なのか、ということを訴える事が重要なのではないだろうか。

多くの人が「私は他に重要な仕事があって事務仕事や家事なんてやってらんない」と考えてしまいがちである。しかし、そういう、誰もやりたく無い仕事をする人こそ高い給料で雇われるべきではないだろうか。

女性が、正社員になりたくてもなれない、もしくは昇進したいのにさせてもらえない、という状況は今までずっとあったことだった。
そういった問題に対して、多くの人々はそれを耐え忍び、もしくは妥協して家庭など他の場所に自分の存在意義を見いだす。ただ、それが耐えられなくなった人は裁判を起こすなどのなんらかの行動に移っている。また、家庭に関しても、近年は男性の労働状況さえ1人で家庭を支えるのに充分であるとは言い切れず、一生専業主婦で過ごすことは難しいだろう。
だからこそ、女性の労働について、今一度考えてみる意義は多いにあると思う。

駄文、失礼いたしました。