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レビューを書いて文章力をあげたいという甘い考えの産物です。

メディカル・コンフリクト・マネジメント

医療紛争―メディカル・コンフリクト・マネジメントの提案

医療紛争―メディカル・コンフリクト・マネジメントの提案

卒論を書く上で重要な本でした。
発見したときは小躍りしました。
(なかなか見つからない本だったから)

紛争って、なんだろう。
私は特に法学部だったから、「紛争」と聞くと、すぐに「裁判」とか思っちゃう。
確かに裁判も紛争処理の一つの方法だけど、裁判はあくまでも「法的観点」からの解決しかできない。
でも、裁判にいたるまでのストーリーがあるんですよね。
人間が裁判にいたるまでっていうのは、本当に、一つのストーリーになるはず。
そして、その過程で、ほぼ必ず「ディスコミュニケーション」という問題があると思うのです。
なんか誤解してたり、なんか意地を張ってたり、場合によっては自分が得するために人を騙してたり、いろいろあると思うけど、その多くは「ディスコミュニケーション」ですよね。
(但し、騙してるとか嘘ついてるとか言う場合は、確信犯だったりすると、必ずしもディスコミュニケーションに原因を帰することはできないと思います。
ただ、その人が嘘をつく人になってしまった原因とかは考えることができるよね。まーそれ考えてもあまり直接の紛争解決には関係ないかもしれないけど。
あと、ある程度の嘘だったらコミュニケーションを取ることで明かせることも有ると思う)

さて。
医療の現場というのはどうなんでしょう。

普通の民事事件と同じように、損害賠償が問題になるわけですが、普通の民事事件と異なるところもあるはず。
それは、医療という現場の特殊性に関わってきます。
自分の判断で、自分の命や身体を、専門家と思われる人に預ける。
それが医療の現場ですよね。

しかし、専門家だって一人の人間で、私たちが普段するのと同じように、ミスをしたり失敗したりする。
ただ、私たちが仕事上でミスしてもせいぜい契約がとれないとか、損害がでるとかで直接人の命に関わることはすっごい例外な気がしますが、医療だと、直接命や身体に関わる。
命や身体がわたしたちにとって(おそらく)最もプライベートでデリケートな問題だから、私たちはそこで過剰に反応してしまう。
そして、医療紛争が起こってしまう。
それが、ありがちだとわたしたちが想定する医療紛争ではないでしょうか。

もしそうだとしたら、医療紛争が起こるのは、医療ミスがあったからではなく、わたしたちが過剰反応をしてしまうから、と言えないでしょうか。
そして、そうだとしたら、医療紛争を「法的紛争処理」をする「裁判」の場に求めることはあまりにも無駄なんじゃないか。

と思いますし、ADRにも、おそらくそういう思想が入っているのだと思います。

この本を書かれた和田先生は、ADRには二つの思想がある、というのをおっしゃっています。
「裁判準拠型」と「対話自律型」です。
「裁判準拠型」は、どちらかというと、裁判と同じことを裁判じゃない場で(もうちょっとインフォーマルに)やろう、ということで、
裁判に欠けている柔軟さや金銭的・時間的負担を軽くすることが目的。
ただ、結局弁護士と裁判官OBとが出てくる感じで、結局患者は蚊帳の外なのかな、という感じがします。
実際に存在する裁判準拠型のADRも「判例を元に」とかいってるしね。

一方、「自律対話型」は、上記の思想に非常に親和的だと思います。
医師と患者が、それぞれの思いの丈を話すのです。
これは、一つのカウンセリングだと思います。
医療従事者によれば、医療事故によって、医師も患者も一種の「ショック」を受けます。
患者は「なんでこんなことになっちゃったんだ!」というショックを受けるのはいわなくてもわかると思いますが、医師だって「なんでこんなミスしちゃったんだろう・・・」というショックをうけます。
わたしたちだって、ミスしたときショックを受けますよね。
それと一緒。
そのショックっていうのは、例えば、ホスピスに入っている、余命が宣言されているような患者が受けるショックと同様で、もっと言えば、私たちが彼氏や彼女にふられたときに受けるショックとも同じ。
その「認めたくない事実」というショックの原因に対して、わたしたちは「受容」のプロセスを経る必要があります。
(私の大好きなDiane Birchの『Nothing but a miracle』という曲のPVは、まさにその受容の5段階のプロセスを表してます。よかったらみてみて♪)
医療紛争は、その「受容のプロセス」における一つの手段にすぎないのです。

ということは、その「受容のプロセス」を十分に経ることができれば、紛争は減るんじゃないでしょうか。
ただ、近年の医療の進歩により、病気だってことを知る→手術など処置をする→退院する のプロセスが非常に短くなっていて、その間で受容のプロセスを終らせるのが難しいのと、「受容のプロセス」を一緒に歩んでくれる人を探すのがなかなか難しいし、周囲に理解してもらうのも容易ではないと思う。

そんなことを考えています。

ただ、この本を読んでても思ったけど、なぜか、「裁判準拠型」のADRをみんな否定しないんだよね。
それはただ単に裁判が面倒くさすぎるからADRにしようよ!っていう話なのかもしれないけど、裁判準拠型だと、「判定を下される」という部分はほぼ一緒なのに、判断に至るプロセスが「柔軟」というのは、逆にちょっと危険な気がする。
特に、そこに関わるのが医師がいるにしても弁護士や元裁判官ばかりなら、下手したら「公開されない裁判」になって、最も危険な匂い・・・

ただ、「自律対話型」のADRには少し希望が見いだせます。
だって、同じADRっていうのが不思議なほど、コンセプトからなにから違うもん。
でも、これだって、まだまだ課題が多いと思います。

私は、別に紛争解決を調べたいわけじゃないけど、紛争を通して、もっと普遍的な何かが見つかる気がするのです。
詳しいことは、卒論書いたら書くことにしますが。

長文、よんでくれてありがとうございます。