高齢社会を生きる
高齢社会を生きる―老いる人/看取るシステム (未来を拓く人文・社会科学シリーズ 3)
- 作者: 清水哲郎
- 出版社/メーカー: 東信堂
- 発売日: 2007/11
- メディア: 単行本
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この本はあまり有名な本ではないですが、いい本だと思ったのでレコメンドします。
古本市で100円ぐらいで買った(買ってもらったんだっけ?!汗)んですが、儲けもんな気がします。(間違ってるかもしれないけど・・・)
この本は、特に高齢者を対象とした医療政策を議論する際に、思わず「前提」として語ってしまうことにメスを入れているように感じました。
例えば、「認知症」になったら本当に死にたいのか?(そして「認知症になったら死にたい」という発言は、実は認知症に人々を否定することなのではないか?)
(食事ができない患者に)何もしないで飢餓死させるよりも、最先端の治療を行う方が実は非人道的なのではないか?(この話は、本当に考えさせられた)
日本に置ける「ボランティア」というシステムは、実は安い労働力を使っているだけであり、医療における専門職の育成や活動を阻んでいるのではないか?
などなど。
どれも、今までの固定概念を破壊させてくれる考えだったので、非常に面白く、今後の勉強においても役立つと確信しました。
私たちは、おそらく「人」のことを、あまりに勝手に決めつけすぎている。
自分が「人」の一つであるにも関わらず。
いや、だからこそ、その「人」の気持をあたかも自分が代弁できると勘違いしてしまうんだろう。
だけど、ある人の気持を完全に理解することは不可能である。
例えば今私が「自分が認知症になったら」と想像したとする。そりゃ、当然「嫌だな」と思う。でも、認知症になった私は、もしかしたら今の私以上に一日一日を幸せに過ごしているのかもしれない。
結局、わたしたちは「現在」の自分がもてる尺度でしか他の物事をはかることができないのだ。
最後の話は、私たちが「物語」の中で生まれ、死ぬ、という話だった。
こういう話は、私はあまり勉強したことがないから、上手く話せるかわからないけど、
あえていえば
私たちは「生活」のなかで生まれ、死んで行く。
この「生活」から完全に離れて、例えば病院とかで生まれ、死ぬようになってきているけど、そのために、やはり生活と「生死」にズレが生じてきている部分はあるだろう。
「生死」を感じない生活を続け、生きていることの尊さと「死」という現実を、私たちはいつのまにか実感できなくなっている。
一方、「出産」も「死亡」も病院でなされるため、そこでは「田中愛子」といったような画一した個人としてよりも「一人の人間」という認識のほうが先行しやすいようにも感じる。
うーん。
いろいろわからなくなってきたな。
もっと勉強します。