This is the day

レビューを書いて文章力をあげたいという甘い考えの産物です。

弱くある自由へ

弱くある自由へ―自己決定・介護・生死の技術

弱くある自由へ―自己決定・介護・生死の技術

そもそも「自由」とはどういうことなのか。
こういう論争はよくきかれる。

自由の前提はなんなのか。

ある人は、あることをなす「手段」が、万人の手に入る状態であることを「自由」と呼ぶかも知れない。
しかし、もし、なんらかの事情で、その手段にアクセスすることができないひとがいたとしても、その状態は「自由」とよばれるのだろうか?

障害者の状況はまさに、この状態である。
だから、もちろん、彼等をサポートすることが大切である。

が、それは、「サポートする側本位」ではあってはいけない。

しかし、現状は、サポートする側本位なのである。

彼等は時に自分たちの「専門性」を振りかざし、別の時には「善意」を振りかざす。
確かに、サポートする側のパターナリスティックな行動が肯定されることはあるだろう。
しかし、それが常に肯定される訳でもない。


というようなことを自分なりに読みとりました。
この、立岩真也さん、すごいと思います。
文章は、正直、ちょっぴり読みにくい・・・
が!内容は本当に、意表をつかれるものだったり、とことん追求し尽くしたものであったりします。
すべてが正しいのかはわかりません。
でも、少なくとも、私に新しい視点を与えてくれたのは確かです。

この本は、なかなか挑戦的で、場合によっては危険であることさえ感じさせます。
立岩さんは主に障害者問題に関わっていらっしゃるようなのですが、とにかく、「障害者」その人の声を重要視している。
当たり前と言えば当たり前なんですが。
でも、実は多くの「障害者」に関する言動が、「障害者の家族」や「障害者の世話をする人」からなされていて、そう言った声を「障害者の声」として聴いてしまっている私たちがいます。

でも、彼等もまた障害者本人とは異なる利害を持ち、異なる価値観の中で生きています。

衝撃的だったのが、安楽死の話。

私は今まで、安楽死を肯定的に捉えていました。
痛みに耐えられない人がいるなら、辛い人がいるなら、そういう手段もいいんじゃないか、って。
そして、例えば、「ぼけたらもう施設にいれて、安楽死させてもいいよ」といったような言動を普通に聞き流していました。

でもそういう発言は、実は「ぼけた」人達の否定なんじゃないか。
そういう「ぼけた人は死ねばいい」という価値観を暗に秘めているんじゃないか。
そういう問いに、ハッとさせられました。
だからといって、安楽死反対派になったわけでもないのですが・・・。

それから、「家族が介護する義務」が本当にあるのか?という問いも面白かった。
生活保護とかでも、まず、「扶養義務のある家族」というのが出てきますよね。
でも、小さな子供でないかぎり、家族に、本当に「扶養する義務」はあるんだろうか。
むしろ、社会のみんなで負担する=税金という手段が、もっと用いられてもいいんじゃないか。
こういうと、「大きい政府」と思われるかもしれないけど、実は著者は決して「大きな政府」を目指しているわけではない・・・

と話をすすめてきて、分かることが一つあります。
それは、私たちは議論をする際に、あまりにも複雑なことを、簡単に「単純化」してしまっているか、ということです。
「介護や医療の社会化」=「福祉国家」ではないはず。
「障害者の家族の意見」=「障害者の意見」ではないはず。

こういう、ついつい考えずに済ませてしまうこと(そして、むしろ問題なのは、そういうことを考えずに済ませてしまうことができてしまうことだと思いますが)を、立岩さんはしっかり拾って、私たちに問いかけます。

だから、とっても面白かった。
この視点、忘れずにいたいですねー!!