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This is the day

レビューを書いて文章力をあげたいという甘い考えの産物です。

ある近代産婆の物語ー能登・竹島みいの語りより

なんとamazonにない本なので、リンクはいつもと違いますー。
ある近代産婆の物語ー能登・竹島みいの語りより

以下は、ブックレビューとそこから得たこと。


 「産婆」と「助産師」は、どちらも妊産婦と関わる職業である。「産婆」は1874年に「医制」によって初めて具体的な規定が行われており、それまでは「トリアゲバアサン」がいた。また、1948年、産婆は「保健婦助産婦看護婦法」によって「助産婦」に改称される(なお、2002年の改称により現在は「助産師」が正式である)。本書は、1924年に産婆の免状を取得した、能登半島の町に住む産婆「竹島みい」の語りを通して、ある地域における大正・昭和期の出産の変化を眺めるものである。そして、本書からは、産婆と助産婦の違いも読みとることができる。
 竹島みいは、1906年旧家にうまれる。16歳のときに産婆を志すものの、みいの父は産婆をトリアゲバアサンと同一視し、「トリアゲバアサンとは、「隠坊」や「藤内」と呼ばれる者がする特別な仕事であり、産婆などになって「竹島家」の名を汚すことなど絶対に許さない」と猛反対している。「隠坊」や「藤内」とは非差別民のことである。当時、非差別民以外のトリアゲバアサンもおり、その境界はあいまいであったものの、特に男性は、自分たちとは異なる人種が行うことと捉えていたようだ。みいの祖母も、「イミがかり」などと言ってみいを嫌悪する。
 みいは、1923年に学校を卒業し、「新産婆」としてそういった社会の中に入っていく。はじめこそ今までのスタイルを踏襲するものの、やがて、産婆学校で学んだ知識を用いて出産の大改造を行う。主な改造点として①座産から仰臥位分娩(寝た姿勢)へ姿勢を変えること②出産前の診察を習慣づけること③衛生観念をもたせることを挙げているが、そのほか医療機器の導入などの多様な変化の中で、人々のもつ出産の概念が変化していく。20歳で開業し、袴姿で自転車を跨ぎ出産間近の家に急ぐみいの姿は、いつしか女性たちの憧れにさえなった。結婚を契機に産婆をやめるみいだが、1941年からまた本格的に産婆をはじめる。しかし、次第に、数が増えていた産婆同士の争いや、産児政策に翻弄されるようになる。
 戦後、産婆を巡る環境はドラスティックな変化を迎える。まず、名称が助産婦に変わっただけでなく、看護婦資格が必須条件となる。また、政策に関しては、戦中は「産めよ増やせよ」だったものが、戦後には受胎調整を任され、当時流行りだしていた中絶にも関わるようになる。この辺りから、医師と助産師間の上下関係が確立していくようだ。
 この頃から、みいは施設分娩を推進する。その主な理由としては、異常分娩への素早い対処があげられているが、背景には、みいの加齢や通婚圏の拡大、妊婦による産婆の選択が行われたことも考えられる。はじめは助産所を開設するが、すぐに近隣のすべての個人開業助産婦が働く「母子健康センター」の経営に携わり、さらにその数年後には、母子健康センターは診療所に合併された。ここでは診療所において「自分の知識、技術、意志を頼りに、地域の人々との密接に関わりながら長年、助産業を営んできた」[268頁]産婆たちが、初めて医師の下で働くことになる。このわずか10年ほどの間(1955~1967年)に、はじめは80%以上だった施設外の分娩数が16%に落ち込み、他方で施設での出生が17%から84%へと飛躍するなど、家庭分娩と施設分娩の割合は逆転する。しかし、なんと1981年、医療事故がきっかけで診療所は閉鎖され、利用していた地域の人々は町外の病院に移ることになった。みいはそれ以来、新生児訪問は行うもののお産に呼ばれることなく、彼女の産婆としてのライフヒストリーは幕を閉じる。
 インタビュアーである西川麦子は、とても誠実な態度で資料に接し、解釈しようと努めている。読めば読むほど助産職に対する純粋な好奇心や知識欲が伝わってくるのだ。特に、西川のインタビューにおける忍耐強さには目を見張るものがある。インタビューの対象者は、みいの働いていた地域の集落で出産を経験した人々や、京都に住む高齢の個人開業助産婦にまで及ぶ。彼女たちは非常に高齢であり、更に方言があるため、会話の文章を読むだけでも、書き下ろすことさえままならなかったことが伝わるが、西川は口語を忠実に再現している。実際、方言ならではのコミカルな語りには躍動感があり、人々が実際に経験した現場に読み手を引き込んでいく。
 しかし、この研究の背景には、みい自身が所持していた様々な助産関係の道具や、みい自身による助産の記録、そしてなによりみい自身がインタビューに触発されて書いたライフヒストリーの存在が不可欠である。特に、5章『近代産婆の登場』においては、異常分娩について、図を交えた詳細な説明がなされている。また当時の間取りなどといった分娩を取り巻く状況についての解説も詳しい。インタビューに積極的な竹島みいに出会ったことや、規模がちょうどよく気さくに話してくれる人が多いというこの集落を見つけたということが、研究の成功につながったといっても、過言ではないだろう。
 本書の特徴の1つ目として見逃せないのが、彼女のプライベートに関する記述である。彼女の家族、特に結婚に関する記述には、大正・昭和期を生き抜いた一女性のライフヒストリーとしても読めると同時に、産婆という職業がどのような環境のもとにあったかが明確に示される。助産に関する政策や政治的背景を参考にする必要性はあるが、「職業としての産婆」という視点から、一人の人生の一側面としての「産婆」という視点も欠かせない。「産婆」は、全人格的に出産に関わる職業であるため、プライベートな出来事が、仕事にも深みを増すだろう。みいは、真面目な警官である夫孫七との文通交際や流産、そして転居などを経験するが、交際から約10年で夫が亡くなり、短い結婚生活は幕を閉じる。夫の死後に婦人会や未亡人会の役員や民生委員、保健婦などとして精力的に地域活動に関わっていたと記されている[212頁]が、これは、「産婆」という仕事が認知されていたことの証であると同時に、彼女が旧家の出であることや夫が警官であったことなども考慮にいれる必要があるだろう。
 2つ目と特徴としては、西川が「生活」に焦点をあてて自然な解釈を試みている点が挙げられる。とはいえ、竹島みいが産婆になったきっかけは警官からの紹介であったことや、行政による産婆の業務記録の検閲があったことから、フーコー的な「権力と出産」という構図も見え隠れする。更に、西川自身も問題としてあげていることではあるが、本書では出産をする人々の内発的な面に関する記述は多くない。しかし、それでも西川は人々がそれぞれの立場から「微妙な判断」[219頁]をしてきたという側面に焦点を当てる。戦中さえ家族も産婆も医師も、そして警察官も、生活に即して出産などの選択をしてきたという指摘は、至極自然な解釈であると同時に、産婆などの職業が如何に地域に根ざしていたかを物語る指摘でもある。
 ここから、実は「産婆」と「助産婦」の違いも明らかになっている。その違いとは、「地域社会にとって不可欠な存在」という点である。そもそも、大正以前は普通の出産では家族や親戚、近所の人々が介助を行っていた。「トリアゲバアサン」と呼ばれる人たちは職業として出産の介助をしていたものの、難産の時にのみ呼ばれていたようだ。トリアゲバアサン自身も、助産の専門家と認知されていたものの、特別な知識や技術をもっていたわけではない。そういったなかで、専門知識をもつ「産婆」は新しい存在にみえたことだろう。しかし、産婆もまた、地域のなかで出産の手助けをしていたという点ではトリアゲバアサンと変わりない。例えば、産婆は女性の生活に多面的な関わりを持っており、女性たちは産婆の家におしめなどの縫い方を習いながら、夫の浮気、夫婦喧嘩、姑との関係などに関する愚痴や悩みをいい、様々な相談をしたという。また、産婦の大多数は農家であるため、農業が忙しい時期に出産が見込まれる場合には早産術を行うこともあった[275頁]。このように、産婆は「それぞれの産婦についての個人的な事情を熟知し、そのうえで産婦、産家と接し指導」にあたっていた[308頁]。一方で、京都の開業助産婦たちの話にもあるように、戦後の「助産婦」は、看護婦としての高等な教育を受けているためどうしても指導格になりがちである。例え現場にきたとしても医療機器の発達や医療従事者間の分業がすすんでいるため、開業助産婦はもういなくなるとさえ言われている[281〜283頁]。また、助産院ではお産の準備など助産に関する幅広い情報が助産婦から産婦へと共有されていたが、病院勤務ではそれもないという。西川自身も「近代的な医療施設で意志が全ての出産を扱うようになり、安全性は高まったのかもしれないが、産む側と産ませる側とのコミュニケーションがどこまで深まったかは、疑問である」といっているように、戦後助産師の活躍の場が病院となってしまったことが、助産師の可能性を狭めてしまった側面があることは否めないだろう。
 診療所を退職したみいは、翌年に、叙勲され、天皇から言葉を受けている。「イミがかり」や「一種違った民族がする仕事」として両親に反対されながらも、「その時代、その土地が与えた可能性を感じ取る才能と、その可能性に逆らわない感覚」が備わっていたみいは、涙ながらにその名誉を受けている。しかし、これは決して竹島みいだけの物語ではない。異なる地域や異なる時代においても、やはり出産を手助けする人は存在する。「出産」は「人」と共に必ず存在する。みいの物語はその中の1つであると同時に、他の物語への道標でもある。現在日本では産婦人科医不足が叫ばれているが、この対策を考える上でも有効であると同時に、「生活」とはなんなのか、どのように営まれるものなのかを知る上で、貴重な資料であるといえるだろう。