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レビューを書いて文章力をあげたいという甘い考えの産物です。

子どもを産む (岩波新書)

子どもを産む (岩波新書)

子どもを産む (岩波新書)

20年も前に書かれた本なのに、新鮮だった。
その前の2、30年で自宅分娩と病院分娩の割合が逆転したのに、その後の出産を取り巻く環境はあまり変化していない、ということなのだろうか。

そもそも、
「出産は病気ではない」
とはよく言われることだ。
なのに、病気ではないのに、病院に通い、医者とともに出産するなんておかしくないだろうか。
と思ってもおかしくないはずなのに、私たちはあまりにも簡単に病院で産む、ということを想定している。

そこには、私たちが知らず知らずのうちに持ってしまっている「医療という信仰」が見え隠れする。
とりあえず、病院に行けば安心だろう、
とりあえず、専門家に見てもらえば安心だろう、と。

もちろん、専門家とはまさにそのみちを専門的に知っている人なわけだから、
安全ではあるだろうが、本当に安心なんだろうか。
それは決して、出産のみに関係する話ではない。

例えば、子どもがちょっと熱を出したとき、例えば、自分がちょっと具合が悪いとき。
なんだか安心したくて、病院に行ってしまう。
いや、病院に行くことを否定したい訳ではない。
病院にいくことで、なんらかの傷病を発見できる可能性は高くなるだろう。
また、病院で「大丈夫です」といわれると、なんだか大丈夫な気がする、ということもある。
まさしく、病は気から。

しかし、このとき、実は病院にはまさに「安心」というサービスを買いにいっているにすぎない。
そもそも、自分が通っている医者はヤブ医者かもしれないし、この病気についての研究を十分してないかもしれないし、今日は疲れてて判断を誤っているかもしれない。

医者・医療従事者は人間である以上、完璧でありえない。
しかし、ただ「病院に行く」ということで、なんらかの安心感、安心という資格のようなものを意識的/無意識的に期待していないだろうか。
自分の期待していた結果(≒安心)が手に入らないといろんな医師を渡り歩いては、満足のいくような結果を探す、ということもあるだろう。

そういった意識は医療紛争の要因の1つかもしれない。

「病院にいったのに、原因をしっかり見つけてくれなかった。みつけられなかったお前たちが悪い」と。

しかし、そこで行われているのは、完全な責任転嫁であるように思えてならない。
本来は、健康の責任は自分自身にある。
病院に行く/行かない、先生のいうことを聞く/聞かない、そしてどの病院にいくか、ということまで、すべて本来は自分で決定しているのである。
もちろん、医師が怠惰であることもあるだろうが、それだって、自分で医師を判断し、「この医者は信用ならんな」という決断をすることも可能である。

つまり、私たちは、医療において、安全性をみつける代わりに、自分の主体性を犠牲にしているのである。
主体性を放棄している背景には、過去の医師のパターナリズムなどの文化的背景があるだろうし、それを軽視することはできない。
しかし、まさに、その主体性をもつかどうか、ということも、私たちの決断なのである。
そこには、「(幻想の)安心感」があるものの、本当の「安心」があるのかは、疑問である。

私たちは、出産の場で、主体的でなくてはいけないのだが、
それ以前に、自分の人生に、主体的に生きなくてはいけない。
誰かがこういったから、ということをいいわけにするなら、その人は主体的に生きていない。
なぜなら、誰かがいったその言動を受け入れるかどうかも、また自分の決断なのだ。

出産は、生きる上での1つの決断である。
それは、ある意味で特別なことではなく、自分で人生をいきているなら、数ある決断の中の1つでしかない。
つまり、この本にあるような、主体的でない出産を選択している人というのは、実は、自分の人生さえ主体的に生きていない人なのではないかと思う。

責めたいわけではない。
むしろ、これを機に、自分の人生を主体的に生きることの怖さ、そして楽しさ、嬉しさを取り戻せたらすばらしいことだと思う。

それから、もう1つだけ。
無知は罪であると思う。
出産でさえなんでさえ、「知らなかった」ではすまない。
なぜなら、私たちには多くの場合、それを予期でき、それに向けて学ぶことへの扉が開かれているからである。
「知る」という選択をしない、ということもまた、1つの決断なのだ。

最後に。
本書の「何もしないほど与えるものが多い」(助産婦は、積極的かつ能動的に能力を使うのではなく、自分を無にした変化が可能である)ということは、医療に限らず、様々な場に応用できる、そして今まさに求められている能力であると思う。