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This is the day

レビューを書いて文章力をあげたいという甘い考えの産物です。

想像の共同体

大学院に進学する前にできるだけ多く本を読んでおきたい
と思い、この本を読みました。
(進学すると、読みたい本を読む暇もなくなるような気がするので、卒論前の今が一番ふさわしい気持ちにさえなるという恐ろしさ・・・)


超難しい本です。
記述が非常に詳細なので、各国の歴史的背景を認識している上で読まないと、ただの「分かった気」になってしまう。
(そして、今の私は完全に「分かった気」になっているだけなので、この本をレビューを書くことがふさわしいのかどうかさえわからないぐらい・・・)

ただ、この本のメッセージと言うか、主題は非常に単純明快。
それは「国民(ネーション)っていうのは、想像の産物なんだ」ということ。
私たちが「日本国民」とか呼ぶけれども、国民には(当然)「実体」がない。実体のない「国民」をどうして認識できるのか。それは「国歌」だったり「(制度化された)学校教育」だったりという画一化された「何か」を共有しているということでしかない。
しかも、そういう制度って、いわゆる「帝国主義」の中で作られた制度なわけで
少なくとも、日本で言えば江戸時代からなかった。
国歌は「君が代」じゃなかった、教育は「学校では」行われていなかった、というレベルで「なかった」わけではなく、「国歌」「(今でいう)教育」という概念がなかったはず。
だって、それらは植民地支配の過程で、(超簡単に、誤解を恐れず言えば)支配しやすくするために作られた制度であって、日本も、おしつけられなかったにせよ、それを模倣しているという点では他の各植民地国となんらかわることはないと思う。

浅はかに主張される「日本国民だったら」という殺し文句は
特に第二次世界大戦時には乱発された。
「日本国民だったら天皇を崇拝すべき」
「日本国民だったら軍のために持てる者を提供すべき」
そして「日本国民だったらお国のために命を捨てるべき」

「資本主義のために命を捨てる」ほうが、まだわかりやすいにも関わらず、なぜ「資本主事のために命を捨てる」よりも「日本国民だったら命を捨てる」というほうが神聖に感じるのか、そのことをベネディクト・アンダーソンは説明している。

そう考えると、日本の「国民」の「嘘」が見えてくる。
今でも、靖国天皇制について述べる人は「日本人だから」と容易に口にする。
しかし、日本人であることが一体なんなのか。
150年前まで「日本人」という言葉さえなかったはずなのに、なぜ「日本人」からなにか別のことが引き出されてしまうのか。

私は昔から片親が外国人であったからこそ、そしてクリスチャンであるからこそ、この「日本人」には違和感を覚えていた。
私は確かに「日本人」である。それは誇りでもレッテルでもなく、戸籍上の事実である。
しかし、それ以上でもそれ以下でもないはずである。

「日本人」から何かを引き出そうとする人はほとんどが、その「日本人」をもちいて、いかにもそれっぽい「自分の主張」を論拠づけているだけである。
「自然」や「奥深さ」というものでさえ、想像を強化するものでしかないのだから。

本当に、日本は(そして、これは日本だけではないとも思うのだが、日本で住んでいる以上、日本のことが一番目につくのだ)、嘘で塗り固められている。
その嘘を一つ一つ明らかにするだけでなく
「なぜそういう嘘をつく必要があったのか」を見つけることで
なにかを発見できるのではないのだろうか。

ただ、残念ながら、この世は嘘を嘘で塗り固めるという方向で進んでいる。
最近流行の「居場所」や「(軽い)愛」を歌う歌はその典型。
本当は、この世には(どんなに仲のいい家族だって!)自分を丸ごと受けとめてくれる人はいない。
だから本当は「孤独」なのに、あたかも「居場所」があるかのように歌う。
そういう嘘にだまされた可哀想な人々が、「自分の居場所探し」をしている。

私は別にそれを悲観しているわけじゃない。
キリスト教なんかはまさに「孤独」を解消してくれる存在は神しかいない、と主張していて(というか、主張しているはずで)、それを信じているわたしは、少なくとも孤独ではない。
でも、人間に求め続けるかぎりは、皮肉なことに、「孤独」になっていくんだな。

そういう真実にむきあうことは本当に恐ろしいことだ。
けれども、そういった真実にポジティブに向かい合う時に見えてくるものがあるはず。