This is the day

レビューを書いて文章力をあげたいという甘い考えの産物です。

最後に一番大切なものを一つだけ挙げるとしたら、迷うことなくこの「無償の愛」を挙げます。

新しく子供を授かり、そろそろ知恵もついてきたところで、これからこの子供をどのように育てようか、ということを考えることが多い。

父や母は、「子供が育つことの邪魔をするな」というが、その具体的な手法がよくわからないし、おそらく私の父や母も完璧にはわかっていなかったのではないか、と思うことが少なくない。

ただ、子供と実際に向き合っていると、子供を「こんな風に育てたい」と思うこと自体がおこがましい、ということを痛感する。子供と二人きりだとあまりわからないが、子育て広場のようなところに連れて行って、同じぐらいの子たちと見比べると、自分の子供の性格の特徴のようなものが見えて来る。

夫の父母には、「生まれたときから、子供の将来の姿は見えるものだ」といわれたが、まさに、たった一年であっても、振り返ってみると、あのころからこの性格だなーと思うことが少なくない。

 

そういうわけで、世に流布する大半の子育てハウツー本(特に、「子供を東大に入れる」系のやつ)は信用していない。

が、この本は、「著者のパンプキンが自分の育児成功体験を執筆したわけではない。むしろ自分ができていなかった育児反省点を大々的に紹介した『反省文集』という感じ」であり、主に「エリート」と言われる人たちへのアンケートで構成されているため、納得度が高い。

 

一流の育て方―――ビジネスでも勉強でもズバ抜けて活躍できる子を育てる

一流の育て方―――ビジネスでも勉強でもズバ抜けて活躍できる子を育てる

 

 

成功体験を語るハウツー物は、「私は◯◯をしたから成功した」と自分の人生の成功のきっかけを勝手に挙げることが多いが、成功した理由をあげるということは実は難しい。なぜなら、成功した背景には、自分が成功要因だと考えていること以外にも様々な要因が存在し、因果関係を綿密にチェックしないことには、どの要因が「成功」に結び付いたかは本来は分かり得ないからだ。

 

そして、さらにいうならば「成功」しているというのは現時点での評価に過ぎず、死の直前まで「本当に成功したのか」は誰にもわからない。成功者として本を書いても、その出版直後に自己破産することだってあるだろう。だから、そもそも「成功」することを目的とした本というのは、はなつまみものなのだ。

 

その点「一流」というのは興味深い視点だと思う。一流であるとは、必ずしも有名人になることやお金持ちになることを意味しない。ただ、教養や品性をもち、周りの人々に愛されながら、自分の特性を生かしてポジティブに社会に貢献しようとする人、が一流なんじゃないかな、とは思う。

「幸福なキャリア・人生を切り開く、『子どもに感謝される育児法』を幅広く調査し、(略)複合的な視点で論じ」たと著者は語っている。調査といっても、「いわゆる」日本のエリートと思える「一流大学」の学生にアンケートをとった、というだけなので、学術的な意味での調査といえるかというと非常に疑問だ。切り取り方もとても恣意的で、この本を読んで、なにか具体的な手法がわかるのか、と言われると難しい。

 

ただ、一貫して「親が無償の愛を子どもに注ぐこと」、そして、子どもの特徴などをよく掴んで、特に未成年の間はよく伴走することを親に提言していて、その一貫性には納得する。本当に多くの親は、ただ子どもを塾に行かせれば、習い事をさせれば、お金をかけてレジャーをすればいいと思っている人が多い。もちろん、時には投資としてお金をかける必要もあるだろうが、その投資の妥当性を常に考える必要があるし、投資はお金だけでなく、時間も対象である。お金がなくても、子どもと一緒に勉強し、子どもと一緒に出かければ、十分なんらかの「学び」を得て、子どもに刺激を与えることもできるはずだ。そういったことにあまりに盲目的で、「うちの子は塾にいってるのに勉強しなくて。。。」などと語る親をみると、泣きたくなる。

 

子は、親を見て育つ。子どもに勉強して欲しいと思ったら、まず親である私が、熱心に勉強しつづけなくてはいけない、と強く、思っている。そのためにも、もっともっと、本をたくさん読まなくては。

『親が子供ときちんと向き合い、人生に大切なものをしっかりと教えれば、公立でも私立でも子供は立派に育ちます』

 

宝くじで1億円当たった人の末路

宝くじで1億円当たった人の末路

 

もしあの時、こういう選択をしていたら、今の人生は違うものだったのかもしれない。

自分の人生に不満があるとき、なんだかうまくいかないなーと思っているとき、その原因を過去に求めようとする、ということは決して珍しくないことだと思う。

現在の問題と向き合いたくないときには格好の逃げ場となるが、結局過去を後悔したところで現実がなんら変わるわけではない、というのもまた現実だけれども。

 

そして、その視点から抜け出す上で最も効果的な方法の一つは、自分が選択しなかった「あの人生」を生きた人が、その後どうなるのかを知ることだと思う。

結論から言えば、私がいま後悔している「あの人生」を生きたところで、なにかしら悩む種や困りごとはあり、「バラ色の人生」ではないんだという確信が強まった。

この本では、一億円当たった人や、教育費にお金をかけまくる人、バックパッカーなど、安易な思考に陥ったときについつい羨ましいと思いがちな人たち、普段の生活でなんだか目に付く人たちやそこに関する専門家をうまく見つけ出し、「その人たち」の末路を描き出す。結局わかることは、自分の選択を主体的に受け入れ、与えられたパイの配分を考えながら、最適解を考え続けることが幸せの近道だ、ということだ。

事実、著者が認めているように、この本を読めば読むほど、「同調圧力に自分を合わせることがいかにナンセンスか」(周りの人に合わせたところで、幸せになるわけでは全くない)、「自分がそれを望むなら、堂々と"人と違うこと"をやればいい」(自分で幸せだと思うことは他人とは違う)ということを思い知る。

 

周りに合わせて子供に多大な教育費をかけたところで、子供にあったものでなければその教育投資は無駄なものになるだけでなく、自己破産しかねない。

パックパッカーになって自分探しの旅を続けたら、そのあと大企業で働くのは難しいかもしれないけど、ニートになるしかない、というわけでもない。

宝くじで一億円当たったとしても、そのお金をうまくマネジメントできないと、破滅につながる。

 

結局、自分の人生の目的をどこに設定するのか、そしてその目的に対してどのような手段を講じるのかというのは、その人の好みやスタイルや家族や能力などによって千差万別だし、自分がその選択に満足するかどうかでしかないというわけだ。

 

子育てをしていると、当たり前のように「一戸建てを買う」ことを目標にしている人たちに出会うが、なぜ一戸建てを買いたいのか。「賃貸だとお金がなくなったら住むところがなくなる」というが、買った場合もローンが払えなかったらなくなるし、災害で住み続けられなくなるリスクもある、なにより30年も経たないうちに、リフォームなどの大掛かりなメンテナンスが必要になる。安易な「安泰そう」という選択肢に流れてしまうことの危険に無頓着すぎるのだ。

 

周りのいうことや、一見もっともらしい「常識」にとらわれて、自分の人生を見失ってはいけない、と強く思い知らされる。そして、「自分はなにを幸せに感じるのか」をしっかり見極めて選択をしなくてはいけない、とも。

 

『ユーミンが結婚した辺りから、日本では「処女のまま結婚する」という女性は激減していったのではないかと、私は思っています。』

 

ユーミンの罪 (講談社現代新書)

ユーミンの罪 (講談社現代新書)

 

 

ラジオの効果とは恐ろしいものだ。

たくさんのお気に入り曲を教えてくれる反面、耳馴染みの良くない流行曲も押し売りしている。不思議なもので、嫌いだったはずの曲が、何度も何度も聞いているうちに思わず口ずさんでしまう曲に変貌する。

レコード業界の戦略にハマったと言えばそれまでだけど、そういう曲が私の「懐メロ」になっていたりする。

では、そうではない「好きな曲」というのは、どういう曲なんだろう。 

おそらく、自分の目の前の課題とオーバーラップした歌詞や、課題に向き合っていた際に意識して何度も繰り返し聞いていた曲なのではないか。それこそラジオなどで不意にそういった曲を聞くと、辛かった日々がフラッシュバックする。

 

この本も、「ユーミンの歌を聞いていた頃」を振り返り、ユーミンの曲がいかに自分の人生とオーバーラップしていたか、いかにユーミンに励まされたか、ということを語る、というものである。

 

ただ、この本には、非常に致命的な課題がある。それは、「ユーミンとオーバーラップする」という経験はその人自身の経験であって、残念ながら、当時の若者全般を代表するものではない、ということだ。

さすがバブル世代だなーと思うのだが、本人は、自分が時代のど真ん中にいて「みんなそうだった」と思っているらしい。その時代の寵児として駆け抜けた一握りの人たちは確かにいたし、その人たちには、この本で描かれる思い出たちは「あるある」なのだろう。ただそれは、残念ながら、「みんなが経験したなにか」ではない。

 

著者たちがキラキラした世界で蝶のごとく羽ばたいていたとき、社会の底辺で生きていた人や地方都市で地味に生活していた人も確かにいた。彼らはテレビやラジオから流れてくる「流行りの曲」としてユーミンを知り、CDを購入し、聞いていただろう。彼らは、憧れこそすれ「自分とは違う世界の話」として割り切って聞いていたんじゃないだろうか。売れる曲が必ずしも、「みんなの気持ちを代弁している」のではないことは、ジャニーズやAKBといった事例をみれば明らかだ。

 

百歩譲って、CD売上枚数が「みんなの気持ちを代弁している」ことの表れなのであれば、時代の切り取り方が非常に恣意的だ。ユーミンのファーストアルバムからバブル崩壊期までしか取り上げられていないが、ユーミンの代表曲の一つとも言える「真夏の夜の夢」や「春よ、来い」は、このあとに発売されている。実際に、オリコンチャートでユーミンのCD売上を確認すると、1位は1998年に発売された、当時のユーミンベストといえるような内容のCD(『Neue Musik』、ちなみに「真夏の夜の夢」と「春よ、来い」が入っている)で、2位は、1994年に発売された「春よ、来い」が入っているアルバムだった。一番売上があったアルバムを無視して、「たくさん売れててみんなの気持ちを代弁してて・・・」と言われても、いまいちピンとこない。

 

www.oricon.co.jp

 

 

時代の切り取り方についての理由も特に説明されず、「ユーミンファンの数だけ、『ユーミンとの蜜月』ストーリーが存在する」とまとめることで免罪符にしている感がある。それとも、オタクが言いがちな「売れる前のほうがいい曲があったんだ」ということなのかな。

 

「私」がスタートの「みんなそうだった」なのだから、正確な時代考証などをすれば、この本の内容はきっと簡単に崩れてしまう。例えば、ユーミンの結婚のせいで処女喪失が結婚と連動しなくなってしまった、なんていう言説があるのだが、そもそも当時、結婚と同時に処女喪失する人がどれぐらいいたのか、じゃあ親世代はどうだったのか、なんてことには一切興味がない。おそらく、日本ではそもそも処女のまま結婚する人は一定の割合しかいなかったんじゃないか(いつかこれもちゃんと考察したい)。

 

この本が売れているとするならば、それはきっと、バブル時代にどっぷりと浸かっていた消費市場主義から抜け出せない人たちが、その時代を懐かしみたいからなのだろう。事実や時代考証なんてどうでもいいのだ。自分が救われて、自分が気持ちよければ。ユーミンの曲を都合よく解釈して、その場その場で自分を肯定できれば。心のどこかで求めていた「私を肯定してほしいという気持ち」さえ満たされれば。

 

「だってユーミンがそれでいいよって歌うんだもん」と思い込みながら自分の人生の主体的選択を放棄し、思ったようにいかないと「ユーミンのせいだ、ユーミンの罪だ」と赤の他人に全責任をなすりつける。仕事も恋も中途半端でまだ独身のかわいそうな私。

その思考の浅はかさと不真面目さが、日本に数十年にわたる不況とそれに由来する様々な社会不安、政治への無関心や社会構造の硬直化を生み出したんだ。

ユーミンの罪というなんて、自分が好きなアーティストに対する冒涜ではないか。

自分の人生と真剣に向き合わなかった、あなたの罪、の間違いだろう。

 

 

 

『私たち消費者にはちょっと懐の痛い話です』

 

激安食品の落とし穴

激安食品の落とし穴

 

 

 「私たち消費者」というフレーズを耳にするたびに、それをいうあなたは年収いくらでどんな食生活をしていて、平均的消費者を代表するにふさわしいんでしょうね、と嫌味の一つでも言ってみたくなる。

「私たち=消費者」という魔法の図式は、発言者を一瞬で被害者側に据え置く。全ての人は何かを食べなくては生きていけない。産まれたての赤ん坊から、死に瀕するお年寄りまで、誰もが立派な消費者だ。

 

そして、消費者という側面にフォーカスすることで、供給元たる生産者でもあるという側面を見えにくくする。

ご飯を作り、ベランダでちょっとした野菜を育て、仕事をしてお金を受け取る。生産者というとどこか遠くの田舎で野菜を作るおばあさんや、工場でネジを締めているおじさんを思い浮かべがちだが、生産者は私自身であり、私たちの身近にいる人々だ。

 

「消費者としての私」と「生産者としての私」は、時として相反する。

 

安く良いものを買いたい「私」と、

良いものは高く売りたい「私」

 

汗水流して得た給料は無駄に使いたくない私と、

汗水流して作ったものから十分な利益を得たい私

 

私という一つの個体の中に存在する相反する二つの側面。どちらが良い悪いではなく、正当な感情だ。しかし、そのことを意識しなくなったとき、買い叩くことが正当化されていくのだと思う。

 

つい、仕事をしていた時のことを思い出す。どの上司も、商品を買い叩くことに必死だった。

前年よりも安く受注することに力を注ぎ、達成できないと「企業努力が足りない」となじりながら相手方担当者を無能呼ばわりし、達成できると自分の能力の高さに酔う。もちろん、その背景には、同じく安く良いものを得ようとする社長たちの存在があるので、組織的な問題だろう。

しかし、買い叩いた結果、前年よりもクオリティが下がり、場合によっては部署として達成すべき事項が達成できなかったということには、目をつぶっていた。完全に、手段と目的が逆転している。

 

今日紹介する本は、タイトルがセンセーショナルだけれども、週刊誌などであり溢れている「添加物はガンになる!」的な話では全くない。著者も安い商品を全く食べないというわけではない。が、自分の食べているものが一体なんなのか、どういう流通経路を辿っているものなのかをよく知り、価格が適正であるかどうかを判断しないと、結局安物買いの銭失いになるよ、ということを教えてくれている。

 

最後には、購入する際の基準として「ethical」という概念を提示している。

ethicalであるかどうかを判断にするためには、やはり、自分が購入しようとしているもののことを、もっと知らなくてはいけない。すべてのことを知ることはできないが、だから知らなくていい、とはならない。

 

知ることをサボり、CMやパッケージのイメージだけで物事を判断するときに間違いが起こりうるというのは、日常生活から政治まで、幅広く共通する事項なんだろう。間違えるのが悪いのではなく、間違えたことを自覚し、次に生かすことが必要なのだ。

 

「私」はとても恵まれた環境にいる。いったいどのぐらい、消費者を代表できているんだろうか。

男性を生物学的に子どものワクチンの日程などについていけない、哀れだけれども愛すべき生き物として見る

どうも、訳書のハウツー本は、好きになれない。

訳している人が、訳する側の言語(フランス語なり英語なり)に精通しているからか、その言語のニュアンスを無理やり訳そうとして、何が言いたいかわからない文章になりがちだと思う。

 

一時期、電車の車内広告でやけにフランス人押しな本があって、本屋にも平積みされてたからチラチラっと読んでみると、フランス人の考え方に妙に共感できる自分が。

 

フランス人は10着しか服を持たない~パリで学んだ“暮らしの質

フランス人は10着しか服を持たない~パリで学んだ“暮らしの質"を高める秘訣~

 

 

そういえば、母はフランス系の家系だし、母の考え方に似ている気もする。折しも、ベビー誕生に沸くちゃな家では、ニューボーンベビちゃんをどう育てるかに興味が湧き、図書館で色々な本を借りてみるも、また助産師さんたちに相談してみるも、0歳以下ではみんな「褒めて育てましょう」「子どもが求めたら欲しいだけあげましょう」という、超マイルドお子様優先メソッドの羅列。

もちろん、0歳のうちからビシバシ鞭打ってスパルタ教育をするつもりはないけれども、いいことと悪いことはちゃんとしつけたい。そういえば、しつけってみんなどうしてるんだろう。冷静に考えてみると、子どもをしつけてる人って見たことない。

自分の子どもの頃を思い返すと、成功してるかどうかはともかくとして、しつけに厳しい両親だったので、しょっちゅうお尻を叩かれていたし、夫もゲンコツ(殴るというよりは、グリグリやる感じのやつ)でお灸を据えられていたというから、親世代では当たり前だったはずの「躾」はどこにいったのか・・・

と思っていた時に図書館で、流行りの!?フランス流子育ての本を発見。

フランス人は子どもにふりまわされない 心穏やかに子育てするための100の秘密

フランス人は子どもにふりまわされない 心穏やかに子育てするための100の秘密

 

 子どもには勉強よりも社交性を身につけさせることで知恵をつけさせ、自由よりも制限を与えることで選択の幅を広げてあげる。一見逆説的にも見えるけれども、むしろとても論理的・理性的に、自分の人生を楽しみ、子どもに人生を楽しむ方法を教える。

ブログのタイトルもこの本の中の一句で、共働きなのに男が家事をしないという日本の悩める兼業主婦たちに「諦めるしかないよ、そもそも違う生物だから」と言ってのけるフランス人の凄さ。本当にそれでフランス人女性がたは平気なのか?と思うのですが、フランス人男性がたは相当褒め上手らしいから、「ん〜もう♡しょうがないわね」ということなのかな。逆にこれに共感できないひとは、フランス流の考え方には共感できないかもしれない。

 

ちなみに、フランス文化が凝縮されているのがフランス流食育ということらしく、食育からフランス流子育てを概観した本もあったので読んでみた。

フランスの子どもはなんでも食べる〜好き嫌いしない、よく食べる子どもが育つ10のルール

フランスの子どもはなんでも食べる〜好き嫌いしない、よく食べる子どもが育つ10のルール

  • 作者: カレン・ル・ビロン,石塚由香子(まちとこ),狩野綾子(まちとこ)
  • 出版社/メーカー: WAVE出版
  • 発売日: 2015/12/03
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログ (1件) を見る
 

 

どちらの本も、そこそこ上流階級のワーキングマザーが自分の経験をもとに書いている本なので、生活の切実さみたいなものは微塵も感じないけれど、フランスでは食が民主化されていて、貧しいひとでさえ、いわゆる「フランス料理」を楽しんでいるんだというくだりは、本当にそうなら、現在の日本の子ども食堂が問題視している現状(チープなファストフードによる肥満化や孤食などなど)とリンクする。

 

SNSなどで、義母からの子育てへの口出しを愚痴ると賛同の声が瞬く間に集まり、他のひとの子育てに口出ししないのが美徳とされているなーと感じることが多いけど、子どもが他人に対して失礼なことをしているのさえスルーしなきゃいけないのかな。おせっかいフランス人たちが羨ましくなるのは、きっと、フランス流の考え方が母のそれにそっくりだからなのかな。

 

ちなみに、フランスを絶対視しているわけではなく、「フランスの子どもはなんでも食べる」の著者やその夫はフランスの生活に息苦しさを感じてカナダに戻っている。こういう本もほどほどに取り入れるのがいいのかな。 

 

 

「日本スゴイ」のディストピア: 戦時下自画自賛の系譜

 

「日本スゴイ」のディストピア: 戦時下自画自賛の系譜

「日本スゴイ」のディストピア: 戦時下自画自賛の系譜

 

 

妊娠中、助産師たちが「安産のため」の「日本の伝統的なやり方」としてレクチャーしてくれたのは、長時間の散歩やサラシを使って体を冷やさない方法から始まり、こんにゃく湿布や「斬新な」マッサージだった。それは私に合っていたし、別に批判するつもりではない。

ただ、娘は出産直前に脈が乱れ、緊急帝王切開で元気に生まれた。

「安産のため」にいろいろ頑張ったのに。

産後、助産師たちの目が冷ややかに感じられたとき、ああ、私は彼女たちにとって理想の妊婦ではなかった、それは妊娠中に努力した諸々があったとしても、「安産」という結果が得られなかった以上、妊娠中の努力云々は意味がないのだ、と強く確信した。

誤解があるといけないけれども、私は自分の出産には納得も満足もしているし、医師や助産師にはめっちゃ感謝している。ここで言いたいのは、「他者から押し付けられる理想」というのが、結構身近にあふれているのだ、ということなのですよ。

 

 「<日本人としての誇り>とか<皇国民としての使命>といった大義は、常に必ず他人を命令に従わせるために活用される」

この本は、大量な戦時中の出版物の事例を通して、このことを意識している。

「日本人は粘度の高いジャポニカ米を食べているから粘り強い」「日本人はアジアのお兄さんとして模範をしめさなきゃいけない」といった言説は、未だに小学校の道徳の授業やSNSなんかでもみられることがある。よく考えるとそれはなんの説明もしていない。なのに、言われるとなんとなくそんな気がしてきて、なんだか誇らしい気持ちになる。

 

『それはハッキリ言って「大きな勘違い」で』、仮にソニーがMade in Japanを世界に知らしめたとしても、また、納豆を食べるから欧米人よりも腰が強いとしても、それを聞いている私たち自身は『全然スゴくないまま』。

 

「スゴイ」言説を利用して、教師たちは小学生たちを男女問わず裸にして乾布摩擦していたし、チカンされた女子に対して「チカンされるのも悪い」と今でも聞くような自己責任論?を展開しているわけです。さらには「仕事はお金のためにするのではない」という言説を使って、労働者を酷使する「ブラック企業」の精神もこの時期に確立されている。

 

今日も会社員はサービス残業を続け、SNSでは謎の自己責任論が展開されている。一時期世間を賑わせていた文科省天下り問題もいつの間にか下火になって、日本人の「伝統」と言われる「お上のいうことは絶対」という精神を切り崩すのは、なかなか大変そうですね。

 

結婚と家族のこれからー共働き社会の限界

 

結婚と家族のこれから 共働き社会の限界 (光文社新書)

結婚と家族のこれから 共働き社会の限界 (光文社新書)

 

 

 

独身時代や、DINKS時代には、「会社を辞めようと思う」という話をすると、「転職するの?それとも世界一周の旅で自分探し?」なんて茶化されていたが、子供を授かってから同じ話をすると「専業主婦になるの?」と少し棘のある言い方をされることが多いように感じていた。

私としては、「会社を辞める」といっているだけで「仕事をしない」とは一言も言っていないけれども、まぁどちらにしても「それでも生きていける悠長な人生」として見られてしまうわけだ。

そうみられてしまうこともすごく納得できるものの、その背景をあまりちゃんと把握できていない、という思いは常にあった。だから、この本は、それを知るための一つのきっかけとして読んだもの。

 

この本は「公正であるべき社会」と「特別扱いする( =非公正)な家族」との兼ね合いのなかでどういう社会が目指されるべきなのかを説明しようとしている。

劣位の側にいると、「公正な扱いをしてくれ」と言いたくなるけれども、優位な側にいればできるだけその優位な立場を家族にも引き継ぎたくなる。このすごく単純な人間の感情を、「全ての人の生活が安定する」ということとどのように折り合いをつけるのかというのは非常に難しい問題だと思う。

この本で明示されているのは、

①家父長制は決して「古典的」なものではない

②家族をセーフティーネットとして扱うことが、家族の形成を妨げる

③共働き家族の増大が格差を助長する

という3点で、それぞれについては納得するし、政府が進めようとしている憲法改正などに対しても強い主張ができるような論調になってはいると思う。

特に、共働きが格差を助長するというのは私はとても大事な点だと思っている。共働きにも、「お金のために共働き」「夢のために共働き」とそれぞれ違う理由で共働きになっているわけで、十把一絡げにお金があるはずだ、とか大変だからもっと助けるべきだといったことは言えないと思っている。

ただ、この本自体はあまりお勧めではない、本当に申し訳ないけど、そもそも途中でなにをいっているかよくわからなくなってしまった。私の読解力が低いという指摘は甘んじて受けたいけれども、低い読解力の人に分からせるような文章構成にはなっていないと思う。

さらに、この方は計量社会学を専門としているといっているのに、その割には統計の読み方が甘すぎる。

お見合いや自由恋愛について語っている章で、1920年代生まれで4割を超えている「伝統的アレンジ婚」を少数派といって片付けたかと思うと(p74)、2割弱の不貞行為の経験者を「少なからぬ人(p228,232)」と言ってしまうというのは、あまり納得できませんでした。もちろん、この二つは議論している対象が違うので単純対比はできないし、事例としても小さいことなので「重箱のすみをつつく」となってしまうのかもしれないけど、そういう小さな不信が、この人のデータの読みの甘さへの不信と繋がってしまうとは思う。その辺りが計量社会学の難しいところで、統計は自分が論証したいことの論拠として出すものだから結論ありきになるのは仕方がないけれども、自分の論証したいことを示すために歪めてしまうのは、やはりそもそも論証したいことに無理があるということなのではないかと思ってしまった。

 

この著者は、確かに学術的に「家族」についての見解をまとめようとしているとは思うし、「多様な家族像を受容する社会ってどうしたら可能なのか」という問いは重要だとも思う。けれども、ところどころに見え隠れする「北欧的制度」への憧れがちょっと強すぎる。

 

少なくとも、「私や私の家族がよければそれでよい」という考えを元にした一人一人の行動が社会を破壊してしまう訳で、そこに対して自覚的であるべきというふうに考える上での根拠を得られたという点では有益だったとは思う。