This is the day

レビューを書いて文章力をあげたいという甘い考えの産物です。

はたらきたい

はたらきたい。

はたらきたい。

ゲストが豪華なだけに、なんだか物足りない。
が、逆に言えば、就職に関するアドバイスって、
ほんと、「自分が大事にしているもの」に収斂するんだろうな、という感想。
それ以外のものって、ただの飾りなんだろうな。

個人的には、みうらじゅん矢沢永吉スーパーフリーのみなさんが面白かったけど、なにか残っているか?といわれると…うーん…。

気持ちのいい看護 (シリーズケアをひらく)

気持ちのいい看護 (シリーズ ケアをひらく)

気持ちのいい看護 (シリーズ ケアをひらく)

気に入った箇所

p117
 弱者であることに開き直って、言いたい放題言うやりたい放題やる
 弱者に開き直った人間のずるさとつきあうほど、つらいものはありません。

p118
 医者は患者さんのハレの部分とつきあう仕事
 看護婦はケの部分とつきあう仕事

p126
 「私は患者さんだけがかわいそうなんだとは思いません。かわいそうというならば、人間はみな、誰もが、私もあなたもかわいそうだと思っています。

著者はフェミニストということもあり、限界も感じられた(特に障害者の部分はどうしても「感情論」を否定しているわりに結局感情論に終止している感が否めない)のだが、ただ、それをしのぐ「面白さ」をこの本は持っている。

一番は、看護師の「感情」に非常に素直だということである。

人は誰しも様々な感情をもっている。
特に「感情労働」の典型といわれる看護師はそうなんだろう。

本書では、如何に自分や患者の「感情」に関わるか、ということを真摯に考え、普通では声に出すのが恥ずかしいぐらい深くまで提示している。

ここで、書かれていることもまた、看護師を越えて様々なこと(特に人に関わること)に示唆を与えるのではないだろうか。


但し、本書はあくまでも、本書という体裁や流れのなかで本書のような内容たることが認められているとも思う。もしこれがツイッターで流れていたり、ブログでかかれていたりしたら、「不謹慎」的な態度をとられかねないと同時に、私自身も、このような感情はせいぜい家族や本当に仲が良い友人間で共有すべきことなのだと思う。

この本の評価すべきところは、その、「おおっぴらにされるべきでないこと」をあえて、しかも嫌みない形で提示していることだろう。

感情と看護—人とのかかわりを職業とすることの意味 (シリーズケアをひらく)

感情と看護―人とのかかわりを職業とすることの意味 (シリーズ ケアをひらく)

感情と看護―人とのかかわりを職業とすることの意味 (シリーズ ケアをひらく)

 看護師に必要な能力は、「何かができる能力ではなく、何もできない無力感や空しさに耐える能力」である。それは負の能力とも呼ばれ、「不確かさ、不思議さ、疑いのなかにあって、早く事実や理由を掴もうとせず、そこに居続けられる能力」のこと(キースの詩による)である。
 これを聞く限りでは、非常に難しい能力であると同時に、悲観的、ネガティブな能力であるような気がする。建設的とは思えないし、その能力をどうやって養うのかもわからない。さらに、この能力は一定の「何かができる能力」がある上で求められる能力であるのだから、その難しさは比較できないほどである。

 この能力は、精神療法家が好きな言葉らしい。
 確かに、精神療法については、なにが効果がでるかわからない、いやむしろ悪化するかもしれないという状況の中にあって、行動しなければならないのだ。

 それは、今の、震災後の私たちに求められている能力でもあるのだろう。

 この本は、看護という仕事の特殊性を、独特の視点から述べていて、非常に読みやすいと同時に考えさせられるものであった。
 特に、看護師が真に必要な資質、看護師が求められていること、といったことが、非常に具体的に書いてある。

 非常に深く掘り下げられており、看護師のみでなく誰もが、感情について考えるときに示唆を得られるだろう。
 いま看護師が必要としている政策はなんなのか、それを考える上で非常に有益だと思う。

完全な人間を目指さなくてもよい理由?遺伝子操作とエンハンスメントの倫理?

完全な人間を目指さなくてもよい理由?遺伝子操作とエンハンスメントの倫理?

完全な人間を目指さなくてもよい理由?遺伝子操作とエンハンスメントの倫理?

面白かった。

遺伝子操作とか、人工的な肉体への操作とかが、どういう場合に「よい」「悪い」とされるのか。
その基準については色々な議論があるわけだけど、結局、今までの議論はあまり十分ではなかったんじゃないか、と思わされる。

生が与えられたものであると知ることの重要性が記されているのだが、そのなかででてくる「謙虚」や「連帯」といったものはそもそも道徳の前提とされているのかな、と思った。
この辺りは、正直、もう少し勉強しなきゃいけないとは思った。

生命倫理についての学びになるだけでなく、論理性の勉強にもなるから面白い。

財政危機と社会保障

財政危機と社会保障 (講談社現代新書)

財政危機と社会保障 (講談社現代新書)

なにも新しい知識はない。
読む価値なし。

結局何がいいたいかさっぱりわからない。

そもそも、財政危機と社会保障は全く別の問題。

待機児童の話とかも、当たり前すぎて笑える。

そして、中身が全然説得的でない。

これで大学教授になれるんだもんな。

医者が泣くということ

医者が泣くということ

医者が泣くということ

正直、医者が泣くということがどういうことなのか、さっぱりわかりませんでした。

みんないい、という先生だけど、私は疑問符…

まぁそういう見方もできてよかったかな。

子どもを産む (岩波新書)

子どもを産む (岩波新書)

子どもを産む (岩波新書)

20年も前に書かれた本なのに、新鮮だった。
その前の2、30年で自宅分娩と病院分娩の割合が逆転したのに、その後の出産を取り巻く環境はあまり変化していない、ということなのだろうか。

そもそも、
「出産は病気ではない」
とはよく言われることだ。
なのに、病気ではないのに、病院に通い、医者とともに出産するなんておかしくないだろうか。
と思ってもおかしくないはずなのに、私たちはあまりにも簡単に病院で産む、ということを想定している。

そこには、私たちが知らず知らずのうちに持ってしまっている「医療という信仰」が見え隠れする。
とりあえず、病院に行けば安心だろう、
とりあえず、専門家に見てもらえば安心だろう、と。

もちろん、専門家とはまさにそのみちを専門的に知っている人なわけだから、
安全ではあるだろうが、本当に安心なんだろうか。
それは決して、出産のみに関係する話ではない。

例えば、子どもがちょっと熱を出したとき、例えば、自分がちょっと具合が悪いとき。
なんだか安心したくて、病院に行ってしまう。
いや、病院に行くことを否定したい訳ではない。
病院にいくことで、なんらかの傷病を発見できる可能性は高くなるだろう。
また、病院で「大丈夫です」といわれると、なんだか大丈夫な気がする、ということもある。
まさしく、病は気から。

しかし、このとき、実は病院にはまさに「安心」というサービスを買いにいっているにすぎない。
そもそも、自分が通っている医者はヤブ医者かもしれないし、この病気についての研究を十分してないかもしれないし、今日は疲れてて判断を誤っているかもしれない。

医者・医療従事者は人間である以上、完璧でありえない。
しかし、ただ「病院に行く」ということで、なんらかの安心感、安心という資格のようなものを意識的/無意識的に期待していないだろうか。
自分の期待していた結果(≒安心)が手に入らないといろんな医師を渡り歩いては、満足のいくような結果を探す、ということもあるだろう。

そういった意識は医療紛争の要因の1つかもしれない。

「病院にいったのに、原因をしっかり見つけてくれなかった。みつけられなかったお前たちが悪い」と。

しかし、そこで行われているのは、完全な責任転嫁であるように思えてならない。
本来は、健康の責任は自分自身にある。
病院に行く/行かない、先生のいうことを聞く/聞かない、そしてどの病院にいくか、ということまで、すべて本来は自分で決定しているのである。
もちろん、医師が怠惰であることもあるだろうが、それだって、自分で医師を判断し、「この医者は信用ならんな」という決断をすることも可能である。

つまり、私たちは、医療において、安全性をみつける代わりに、自分の主体性を犠牲にしているのである。
主体性を放棄している背景には、過去の医師のパターナリズムなどの文化的背景があるだろうし、それを軽視することはできない。
しかし、まさに、その主体性をもつかどうか、ということも、私たちの決断なのである。
そこには、「(幻想の)安心感」があるものの、本当の「安心」があるのかは、疑問である。

私たちは、出産の場で、主体的でなくてはいけないのだが、
それ以前に、自分の人生に、主体的に生きなくてはいけない。
誰かがこういったから、ということをいいわけにするなら、その人は主体的に生きていない。
なぜなら、誰かがいったその言動を受け入れるかどうかも、また自分の決断なのだ。

出産は、生きる上での1つの決断である。
それは、ある意味で特別なことではなく、自分で人生をいきているなら、数ある決断の中の1つでしかない。
つまり、この本にあるような、主体的でない出産を選択している人というのは、実は、自分の人生さえ主体的に生きていない人なのではないかと思う。

責めたいわけではない。
むしろ、これを機に、自分の人生を主体的に生きることの怖さ、そして楽しさ、嬉しさを取り戻せたらすばらしいことだと思う。

それから、もう1つだけ。
無知は罪であると思う。
出産でさえなんでさえ、「知らなかった」ではすまない。
なぜなら、私たちには多くの場合、それを予期でき、それに向けて学ぶことへの扉が開かれているからである。
「知る」という選択をしない、ということもまた、1つの決断なのだ。

最後に。
本書の「何もしないほど与えるものが多い」(助産婦は、積極的かつ能動的に能力を使うのではなく、自分を無にした変化が可能である)ということは、医療に限らず、様々な場に応用できる、そして今まさに求められている能力であると思う。